2024年7月16日 自担がサルトル

2024年7月15日 26℃

午前中は午後のライブに向けてセトリを予習

新曲の掛け声覚えていなかったので急いで詰め込む

 

友人が予定通り遅刻してきたので開演30分前に会場入り、センステなしの構成だったけど席運に助けられギリ耐えのポジションに

衣装転換の尺つなぎVCRを真剣に見ていたら友人に鼻で笑われた。このノリなので人文オタとしては見ざるを得ないところがあるんですよね

aespa 에스파 'ep.1 Black Mamba' - SM Culture Universe on Youtube

ライブ自体は良かったものの、回を追うごとに客層がよろしくない感じになっているので、できれば次は日本以外の公演に参加したい。

逆転する円環−ルソー『人間不平等起源論』と社会の再構築、あるいは民主政治の不死について

「人間たちの間にある不平等の起源はなんであるか、また、それは自然法によって是認されるか」[1]

このディジョンアカデミーによって提出された懸賞論文の題に対するルソーの回答は実にユニークなものであった。そのユニークさは、彼のテクストにおける独特の手法から来ている。ルソーはこの題をまず2つの問いに還元する。

(1)不平等の起源はどこにあるのか

(2)今この社会に存在している不平等は是認されるか

ルソーはこれに対し、不平等の起源にたどり着くことは理論的に不可能であること、この社会において自然法によって是認される不平等は存在しないことを回答として導き出した。不平等の起源は到達不可能である。この一見不完全に見える回答にはルソーの策略が見て取れる。ルソーは不平等の起源をあえて宙吊りにしてしまうことによって、2つに還元された問いへの回答を一つの回答へと再構築したのだ。この再構築によってこの回答は、社会に生じる不平等はむしろこの不平等の起源が到達不可能なことによって理論的に打倒されるという意味へと変容する。なぜ不平等の起源に到達不可能であることが不平等の打倒につながるのか。まずルソーが設定した自然状態についての分析を通じて見ていこう。

虚構としての自然状態

人間不平等起源論における二部構成はすでにこのルソーの手法を反映している。ルソーは一部をまるまる自然状態、二部を社会状態(自然状態からの移行過程)の分析に費やしており、これは自然/社会という二項対立の構図をそのまま反映している。ここにおいて特異な点は、彼が第一部をまるまる充てた自然状態がルソーが創設した仮説に過ぎないこと、それをルソー自身が断言している点にある。「事実をすべて退けることから始めよう」[2]ルソーは歴史的事実とは切り離されたいわばフィクションとしての自然状態について分析している。

このような手法には容易な批判が考えられる。「虚構としての自然状態に起源を求めても、結局得られるのはルソーにとって都合のいい答えだけだ」とか「社会における不平等という現実の結果に対して虚構を持ち出すのはそもそも分析の方法として間違っている」などの批判だ。しかし、ルソーはこのような批判をすでに想定している。それどころか、これらの批判はむしろルソーを援用することになる。

ルソーの規定した自然状態によって、今この社会に確かな現実として存在している不平等は、その起源が虚構的であって到達不可能になった。この社会からたどることのできない虚構的な自然状態、歴史という手法によって直線的につなぐ事ができない断絶された自然状態は不平等を糾弾する原理的な力として機能する。

断絶が暴く歴史の不正

一般的な分析の手法を用いるならば、現代の社会的な不平等の起源を探るためには歴史を持ち出さなくてはならない。しかし、歴史を遡ることはその特性上、常に現在という結果から、原因としてのその起源をたどるものであり、この手法は常に現在の正当化というリスクを孕んでいる。私たちは歴史という物語を見つめる時、まるで現代が過去から原因づけられた、こうでなくてはならないただ唯一の当然の結果であるように見てしまうのだ。ルソーの断絶された自然状態は、この歴史を経由した分析の手法に対するカウンターとして機能する。

ルソーの自然状態という虚構、そして社会状態との断絶にについて淵田仁は『ルソーと方法』においてアルセチュールを引用しながら次のように指摘している。

 

「[ホッブズやロックら〕 理論家たちが自然状態に訴える際、その訴えは円環 [cercle] として機能します。この円環はまず自然状態の規定に見てとれる。自然状態が社会状態の規定を通じて考えられているからです。自然状態の人間に、社会ではじめて意味をもち、社会状態の人間のものでしかありえない規定、情念・属性・能力(例えば理性・自尊心)が帰されている。理論家たちの円環は、その思考形式が円環をなしているところにあります。 結果であるはずの社会状態が起源に投影され、そのために起源から結果が生じることが容易になっているのです。 ところがそれは、結果を起源として投影し、前提することにほかならない。こうして自然状態は容易に自己原因となり、起源の意匠のもとで自己正当化される。ここにあるのは反復だからです」[3]

ルソーは「彼らは未開の人間について語りながら、都市の人間を描いていたのである」と述べホッブズらを批判したのだが、その理由は「都市の人間」という研究対象の選択的誤謬というだけではなく、「思考形式」の「円環」に存する。円環を形成する形で自然状態は構築されてきた。ゆえに、「彼らのうちの誰ひとりそこに到達した者はいない」のであり、ただそれは「社会状態に実在するものを合理化する」ことでしかない。[4] 

(太字は引用者強調)

 

 ここでは端的に社会状態に生きる人間が自然状態について考えることの限界が示されている。もし、自然状態が社会状態に直接接続されるものであるならば、それはこの社会状態を合理化するものとして機能してしまう。そこでは「不平等」という社会の側が生み出した災厄すらも、自然状態に起源を持つ正当化されたものとして是認されてしまいかねない。

ルソーが虚構として仮設した自然状態とは社会と断絶されたユートピアにすぎない。ここに重要なポイントがある。それはルソーの持ち出した虚構的な自然状態はそれ自体が宙吊りにされているだけではなく、むしろ社会の側を脅かすという点だ。

起源は虚構として断罪された。ただ、紛れもなく今ここに不平等を内包した社会は存在する。起源を失ったこの社会はまさしく命綱を失った宙吊り状態にあるのだ。

逆転する円環、社会の再構築

この起源を失ってしまった宙吊りの社会の位置をルソーは一度断罪したはずの円環に求める。[5]しかし、その円環はアルセチュールが指摘したような先の思想家たちが指摘した起源を求め過去に遡る円環とは逆周りの円環である。ルソーは現代の社会を政治形態の円環的な変化の最中にあるものとして分析している。つまり、今という地点から起源という過去へという方向の回転を、今という政治形態がどのように変化していくかという未来の方向へと逆回転させているのだ。

個々人間の所有権から生じた法はその結実として国家を作り出した。国家は人民の持つ所有の余剰によって維持され発展する。しかし、その国家もやがて腐敗し堕落する。堕落した国家は人民の手によって崩壊することになる。この崩壊こそが革命である。この革命によって人々は国家を自らの手で手放し、社会を一旦自然状態となんら変わらない状態へと帰還させる。人民はこの「まっさらな状態」[6]から再び社会を始めるのだ。

この円環構造には終わりがない。このやり直された社会もまたいずれ腐敗し堕落する。この国家の勃興、隆盛、そして腐敗、堕落し崩壊するという不断の円環こそがルソーが導き出した結論であった。ここでは第一部で論じられていたように自然状態から法と国家を創設することで社会状態へと発展するという直線的に接続された歴史が否定される。

ルソーの円環において社会は選択可能な存在になる。人々は国家の崩壊した社会なき自然状態において常に、ある社会を構築する。過去へと遡る歴史の手法が結果としてこの社会を必然のものにするのに対して、この逆向きの未来への回転は必然に見えるこの社会を人々がたまたま選び取った偶然の産物へと変化させるのだ。

 民主政治は倒せない

 さらに特筆すべきなのはこの国家の腐敗堕落というプロセスが民主政から君主制への移行と重ねられているという点だ。[7]このすべての国家は君主制へと堕落するという一見強引にも見える論理にはルソーの想定する民主政のもつ不可分の2つの不可能性が示されている。

それはまず、民主政治の永続への不可能性である。どんなに優れた民主政治でも必ず君主制へと堕落する。しかし、その一方で、もう一つの不可能性が持ち上がる。それは民主政治を打倒することへの不可能性だ。堕落してしまった君主制は王の首を跳ね、玉座から引きずり下ろすことでいとも容易く打倒される。

しかし、民主政治はどうだろう。民主政治は倒せない。なぜなら民主政治を打倒するために跳ねるべきはその国家の国民全員の首だからだ。この2つの不可能性は逆説的にある可能性を導き出す。それは民主政が何度でも甦るのだという不死の可能性だ。

社会をやり直すということ

社会は、不平等を内包して確かにここに存在している。この社会は今ここにはこの形でしか存在しないという意味で必然である。しかし、ルソーは虚構としての自然状態によって、逆転した円環によって、この必然を打倒した。

予見不可能で起きてしまえばもう取り返しのつかない社会という決定的な災厄が、社会的な不平等を生み出した。この社会を現実として生きる私達にとって、この社会ではない別の社会が存在した可能性について想像を巡らすことは難しい。

しかし、ルソーの手法によって円環の中に放り込まれたこの社会は、何周目かの円環の一つの社会形態として必然から偶然の状態へと引きずりおろされる。この円環は何周か先に存在し得るかもしれない、ここではない全く別の社会への可能性を開くのだ。

ルソーの論じていた時代よりも不平等ははるかに複雑に社会に絡み合い、より強力に社会という構造の中に閉じ込められている。ただ、ここではない全く別の社会を想像することは、この逃れられない不平等への諦念の悪夢から目覚めることだ。複雑に描きこまれたキャンバスをひっくり返して、そこに新たな世界を描き出し始めること「まっさらな状態からやり直す」ことが何度でも可能であることをルソーは示唆している。ルソーは歴史家として不平等の起源を見つめているのではない。むしろ、彼は偉大な夢想家として、その不平等の存在しないまっさらな未来(それはある社会の終わりでもありまた別の社会の始まりでもある)を、夢想しているのだ。

 

参考文献

ジャン=ジャック・ルソー、坂倉裕治訳『人間不平等起源論付「戦争法原理」』講談社学術文庫、2016年

淵田仁『ルソーと方法』法政大学出版局、2019年

ジャン・スタロバンスキー、山路昭訳『透明と障害』みすず書房、2015年

アルセチュール、市田良彦、王寺健太訳『政治と歴史』2015年、平凡社

 

[1] ジャン=ジャック・ルソー、坂倉裕治訳『人間不平等起源論付「戦争法原理」』講談社学術文庫、2016年、40頁

[2] 同書、43頁

[3] アルセチュール、市田良彦、王寺健太訳『政治と歴史』2015年、平凡社、411頁

[4] 淵田仁『ルソーと方法』法政大学出版局、2019年、248-249頁

[5] 『人間不平等起源論付「戦争法原理」』、139頁

[6] 同書、118頁

[7] 同書、132-133頁

フーリエ入門(0)ユートピアの想像あるいは想像の革命について

 19世紀という決定的な時代が、社会を、近代というシステムを作り出した。この時代に生み出された2つの運命的産物の上を私たちは21世紀の今も歩んでいる。

「この道しかない(There is No Alternative.)」

「この道を。力強く、前へ。」

 ちょうど新自由主義者たちが口を揃えて唱える”この道”。わずか百数十年前にひかれた白線はいつしか正しさの証明印を押され、もはやその正しさを疑うことすらされなくなった。狂信的とも言えるこの道の信奉者たちは、クリアにシャープにスタイリッシュに未だ自由競争を信仰している。

 この道を引いた者たちは、私たちの未来を単線へと脅迫し、傍流を抹殺させた。単一化したこの世界が、合理主義的精神が、ただ一つの未来(それは破滅へと向かう直線運動の末路としての)へと延びている。

「資本主義の終わりを想像するよりもこの世界の終わりを想像するほうが容易い」というフレドリック・ジェイムソンの言葉を マーク・フィッシャーは好んで資本主義リアリズムの冠句の用に使っていたが、これはある意味で正しいし、間違ってもいる。

 グローバルに肥大化した資本主義の終わりは資本主義というシステムの終焉としてではなく、この世界の終焉のビジョンとして目に浮かぶ。わたしたちはもはや資本主義以外の構造によって構成される世界を想像することすらできない、これは確かだ。

 しかし、実際のところ資本主義が終わっても、この世界は終わらないという確信の抱けない事実が在る。結局のところ、資本主義は単なるシステムにほかならない、誰かが生き残って世界はそれでも続いていく。

 生き残る者たちはみな資本主義の子どもたちだ。資本主義の子どもたちは、父親を殺したあとの世界を生き延びなければならない。これは単に未開社会へと逆行することではない。だから決して人類学的な手法もレトリックもいらない、むしろそれでは解決し得ない。なぜなら父親が生まれる前の私は存在していないからだ。そんなことについて考えても、単にパラドックスに悩まされるだけだ。

 考えなければならないのは、残された子どもたちの手でいったい何ができるかということだ。フランス革命以降そうであったように、この世界のシステムを変容させようというあらゆる社会運動は、声を上げ、蜂起することを必要としてきた。しかし、私たちは武器も持たないし、言葉も持たない。

 だが”想像”することはできる。

 私たちはこの世界の不正も欺瞞も矛盾も不合理も知っている。確かにこれらを私たちの柔手だけで解決することは難しいかもしれない。しかし、この世界の一切の不正が、あらゆる矛盾が、不合理が、抹消された理想郷(ユートピア)を想像することならばできるのではないだろうか。想像という創造の可能性が私たちには残されている。

 

 前置きが長くなったが、これから語られるのは、想像の力がこの世界を変容すると信じていたある社会主義者の話だ。彼、シャルル・フーリエの生まれた19世紀フランスはまさに革命の時代だった。血が、暴力が人々にに自由をもたらした激動の時代である。

 フーリエは自らを“見限られた世代”と自称する。彼は革命に参加するにはあまりに若く、革命後の世界を信じるには歳を取りすぎていた。彼に残されていた手段はただ想像することだけだった。たとえ牢獄に送られようと、財産を没収されようと、空想的と揶揄され狂人扱いされようとも、彼は想像の力だけは決して手放さなかった。彼は自らの想像力を信じ、ひたすら記し、語り、また書き続けた。

 想像の革命、それは単なる欺瞞だろうか。そうではないだろう。ここでは例えばイノベーションという言葉が、資本主義に内包されてしまう以前に持ちあわせていた魔術的な力について思い起こされる。この現実をまるごと変貌させてしまうような劇的な革命は常に想像の力とともにあったはずだ。

 私たちに必要なのは想像の力を取り戻すことだ。There is No Alternative.という詐言によって隠蔽されたもう一つの道について想像することが、ひいては傍流を主流に変えるかもしれない。

 社会主義者だった彼らでさえも一笑に付したユートピア的想像力で、もう一度この世界を検討し直すことはできるだろうか。彼の言葉に耳を傾け、彼の想像した調和世界をともに夢想するのはどうだろう。フーリエのテクストにはその価値が、余白が、まだ十分に残されているように感じる。彼はこの現在の末期的世界を生きる私たちにも絶えず想像力をもって呼びかけ続けている。

 誤解を恐れずに言うならば、今ここ(見せかけの自由主義システム、捻じ曲げられた幸福、末期的資本主義に侵されたこの世界のことだ)を変容できるものは概して2つしかない。それは民主主義も資本主義もファシズムも丸ごと叩きのめすような超越的な自己破壊にも似た暴力による破壊か、空想的で突飛もないユートピアの想像の革命、もとい革命的な想像力でしかありえない。ならばわたしは後者に賭けてみたい。

 この空に理想郷を描き出すこと。何度でも破壊される砂上の楼閣の前で、再びゼロから砂の城を作り上げること、この祈りにも似た虚構の立ち上げを何度も繰り返さなければならない。この孤独な祈りの主体が”私たち”に変わるとき、“革命の想像“は”想像の革命“へと変貌するだろう。

 彼の残したテクストが私たちに呼びかけている。想像力の可能性はすでに託された。「さあ、フーリエに投票しよう!」というミシェル・ビュトールの言葉が極めて真実味をもって迫っている。あらゆる不条理を貫く、“読み、書き、語る“この想像的で創造的な行為が世界を変えるかもしれない。この突飛もない可能性を、きっとフーリエを読めば信じることができるはずだ。

さあ、フーリエを読み、想像しよう!

King&Prince アリーナツアー”Made in”についての雑文−あるいは不完全な魔法について−

魔法が死んだ世界に生きている。

M・ウェーバーが唱えた脱魔術化は文字通り魔法を殺し、そこに近代のはじまりを示した。理不尽なほどに徹底された合理性至上主義の支配が、消失した非合理性という魔法を下敷きに今という現実を覆っている。

 資本主義の末期的症状に苛まれた今では、副作用のように生産性に対する強迫観念が、時間という見えない闇が私たちを駆り立てる。クレーの「新しい天使」に耽溺していたベンヤミンが嵐の向こうに見た世界が破滅的な世界がまさにここにはある。

 だからこそ、わたしたちは魔法を求めてしまう。この強迫的な世界からのエグザイルを可能にする、一瞬の魔法を。賢治が希求した「ほんとうの幸い」を求めるように、その魔法の灯火を原動力に動く列車に乗り込むことを。

Made inで演じられる列車はまさに不完全な魔法そのものだ。

不完全だからこそ、列車は決して終着点にたどり着くことはない。ならばこの列車はどこへ行ってしまうのか。それは、出発点だ。今という現実から出発した列車は円環的に再びここへ帰還する。(last trainの行先が「踊るように人生を」という現実をその足で刻むことを是とした楽曲であることがそれを強く示唆している)

魔法の不完全性によってこの列車は現実に引き戻される。現実から魔法の国へというエグザイルは不可能だ。不完全な魔法の力では、この強力な現実の引力からは逃れられない。しかし、この円環は決して絶望ではない。この列車はエンターテインメントという虚構/今という現実という二項対立的な(あるいは断絶をもった関係)を瓦解させ、それを円環的につなげているのだ。

つまり、この不完全な魔法によって魔法の国と現実という両者の存在的位置の距離は失効する。始発点である現実と虚構的な外部は魔法の列車によって円環的に結ばれ、同じ座標上で重なるのだ。そこに現れるのは破滅的な現実を覆い隠すベールとしての虚構だ。

今という剥き出しの現実はベールで覆われる。しかし、その凹凸は隠せない。そこにあるのは理想的なユートピアではない。それは完全で何処にもないどこかへのエグザイルの憧憬をもつだけの、不完全な理想郷だ。

この不完全な魔法による円環とそこに立ち現れる不完全な理想郷の風景の発露こそがこの二時間半の上演なのだ。

 不完全な魔法からなる歪み、そして完全なものに相対される綻びこそがMade inの最大の魅力である。Made inのコンセプトは「和」だ。

「和」その曖昧な響きは度々私たち観客を魅了してきた。その魅力は決して確固とした伝統に裏打ちされたものでも、日本的なものという純粋性にあるのでもない。むしろその存在論的な脆さ、異国文化との無限の交配によるその不可分なアイデンティティの複雑さにあるのだ。

 Made inはこの文脈において最も誠実に「和」と向き合っている。中盤のダンストラックでは「和」はHIPHOPに"賭けられて"いる。

そこでは和洋という対立的な図式は鳴りを潜め、その解釈によって洋は交配される。この自覚的に生み出された歪な和の表象がこのコンサート全体の空気を決定づけている。

中央に用意された舞台は、正円でなく歪な円だ。そこで繰り広げられるのは決して完全な円舞曲ではなく、むしろ情念が絡みついた乱舞曲だ。四季をイメージした楽曲群では、春夏秋冬という形式的な世界の法則は壊れてしまったかのように、冬と夏とを繰り返す。

時間という概念すらも歪んでしまったそこではI promiseで誓われた愛の力だけがその歪にねじれた時間軸を拙くも繋ぎ止めている。この壊れた時間軸は、このコンサートのセットリストにおける円環の構造を匂わせている。last trainは終わりの始まりにすらならない。私たちはセットリストを始まり(ichibanのMVでの秋めいた紅葉の空間に舞う桜吹雪がその狂った時間感覚を表現している)と終わり(実際にDream inはKing & Princeの活動における文言化されたコースマーカーとも言うべき役割を果たしている、いわばターミナル駅のような曲だ)で閉じられた一方公的な世界にいるのではなく、始まりと終わりを繰り返す円環の只中にいるのだ。

円環は繰り返す。不完全な魔法によって永久に繰り返される円環の中の奇跡のような一瞬(ここでは時限的な魔法の物語を下敷きに、愛によって今という一瞬が永遠へと超越されることを表したシンデレラガールが自然と思い返される)を私たちは欲望する。

魔法は完全ではない。しかし、だからこそ、淀みなく乱反射するダイヤモンドに焦がれながら、その歪さを残した不完全なままの彼らの世界を、私たちはどうしようもなく愛するのだ。

"恋の魔法には期限がある"
"時がたてば 宝石もガラス玉さ"
もしもそんな日が来たって
キミは朝の光にかざして
それを 耳元に飾るだろう