フーリエ入門(0)ユートピアの想像あるいは想像の革命について

 19世紀という決定的な時代が、社会を、近代というシステムを作り出した。この時代に生み出された2つの運命的産物の上を私たちは21世紀の今も歩んでいる。

「この道しかない(There is No Alternative.)」

「この道を。力強く、前へ。」

 ちょうど新自由主義者たちが口を揃えて唱える”この道”。わずか百数十年前にひかれた白線はいつしか正しさの証明印を押され、もはやその正しさを疑うことすらされなくなった。狂信的とも言えるこの道の信奉者たちは、クリアにシャープにスタイリッシュに未だ自由競争を信仰している。

 この道を引いた者たちは、私たちの未来を単線へと脅迫し、傍流を抹殺させた。単一化したこの世界が、合理主義的精神が、ただ一つの未来(それは破滅へと向かう直線運動の末路としての)へと延びている。

「資本主義の終わりを想像するよりもこの世界の終わりを想像するほうが容易い」というフレドリック・ジェイムソンの言葉を マーク・フィッシャーは好んで資本主義リアリズムの冠句の用に使っていたが、これはある意味で正しいし、間違ってもいる。

 グローバルに肥大化した資本主義の終わりは資本主義というシステムの終焉としてではなく、この世界の終焉のビジョンとして目に浮かぶ。わたしたちはもはや資本主義以外の構造によって構成される世界を想像することすらできない、これは確かだ。

 しかし、実際のところ資本主義が終わっても、この世界は終わらないという確信の抱けない事実が在る。結局のところ、資本主義は単なるシステムにほかならない、誰かが生き残って世界はそれでも続いていく。

 生き残る者たちはみな資本主義の子どもたちだ。資本主義の子どもたちは、父親を殺したあとの世界を生き延びなければならない。これは単に未開社会へと逆行することではない。だから決して人類学的な手法もレトリックもいらない、むしろそれでは解決し得ない。なぜなら父親が生まれる前の私は存在していないからだ。そんなことについて考えても、単にパラドックスに悩まされるだけだ。

 考えなければならないのは、残された子どもたちの手でいったい何ができるかということだ。フランス革命以降そうであったように、この世界のシステムを変容させようというあらゆる社会運動は、声を上げ、蜂起することを必要としてきた。しかし、私たちは武器も持たないし、言葉も持たない。

 だが”想像”することはできる。

 私たちはこの世界の不正も欺瞞も矛盾も不合理も知っている。確かにこれらを私たちの柔手だけで解決することは難しいかもしれない。しかし、この世界の一切の不正が、あらゆる矛盾が、不合理が、抹消された理想郷(ユートピア)を想像することならばできるのではないだろうか。想像という創造の可能性が私たちには残されている。

 

 前置きが長くなったが、これから語られるのは、想像の力がこの世界を変容すると信じていたある社会主義者の話だ。彼、シャルル・フーリエの生まれた19世紀フランスはまさに革命の時代だった。血が、暴力が人々にに自由をもたらした激動の時代である。

 フーリエは自らを“見限られた世代”と自称する。彼は革命に参加するにはあまりに若く、革命後の世界を信じるには歳を取りすぎていた。彼に残されていた手段はただ想像することだけだった。たとえ牢獄に送られようと、財産を没収されようと、空想的と揶揄され狂人扱いされようとも、彼は想像の力だけは決して手放さなかった。彼は自らの想像力を信じ、ひたすら記し、語り、また書き続けた。

 想像の革命、それは単なる欺瞞だろうか。そうではないだろう。ここでは例えばイノベーションという言葉が、資本主義に内包されてしまう以前に持ちあわせていた魔術的な力について思い起こされる。この現実をまるごと変貌させてしまうような劇的な革命は常に想像の力とともにあったはずだ。

 私たちに必要なのは想像の力を取り戻すことだ。There is No Alternative.という詐言によって隠蔽されたもう一つの道について想像することが、ひいては傍流を主流に変えるかもしれない。

 社会主義者だった彼らでさえも一笑に付したユートピア的想像力で、もう一度この世界を検討し直すことはできるだろうか。彼の言葉に耳を傾け、彼の想像した調和世界をともに夢想するのはどうだろう。フーリエのテクストにはその価値が、余白が、まだ十分に残されているように感じる。彼はこの現在の末期的世界を生きる私たちにも絶えず想像力をもって呼びかけ続けている。

 誤解を恐れずに言うならば、今ここ(見せかけの自由主義システム、捻じ曲げられた幸福、末期的資本主義に侵されたこの世界のことだ)を変容できるものは概して2つしかない。それは民主主義も資本主義もファシズムも丸ごと叩きのめすような超越的な自己破壊にも似た暴力による破壊か、空想的で突飛もないユートピアの想像の革命、もとい革命的な想像力でしかありえない。ならばわたしは後者に賭けてみたい。

 この空に理想郷を描き出すこと。何度でも破壊される砂上の楼閣の前で、再びゼロから砂の城を作り上げること、この祈りにも似た虚構の立ち上げを何度も繰り返さなければならない。この孤独な祈りの主体が”私たち”に変わるとき、“革命の想像“は”想像の革命“へと変貌するだろう。

 彼の残したテクストが私たちに呼びかけている。想像力の可能性はすでに託された。「さあ、フーリエに投票しよう!」というミシェル・ビュトールの言葉が極めて真実味をもって迫っている。あらゆる不条理を貫く、“読み、書き、語る“この想像的で創造的な行為が世界を変えるかもしれない。この突飛もない可能性を、きっとフーリエを読めば信じることができるはずだ。

さあ、フーリエを読み、想像しよう!