逆転する円環−ルソー『人間不平等起源論』と社会の再構築、あるいは民主政治の不死について

「人間たちの間にある不平等の起源はなんであるか、また、それは自然法によって是認されるか」[1]

このディジョンアカデミーによって提出された懸賞論文の題に対するルソーの回答は実にユニークなものであった。そのユニークさは、彼のテクストにおける独特の手法から来ている。ルソーはこの題をまず2つの問いに還元する。

(1)不平等の起源はどこにあるのか

(2)今この社会に存在している不平等は是認されるか

ルソーはこれに対し、不平等の起源にたどり着くことは理論的に不可能であること、この社会において自然法によって是認される不平等は存在しないことを回答として導き出した。不平等の起源は到達不可能である。この一見不完全に見える回答にはルソーの策略が見て取れる。ルソーは不平等の起源をあえて宙吊りにしてしまうことによって、2つに還元された問いへの回答を一つの回答へと再構築したのだ。この再構築によってこの回答は、社会に生じる不平等はむしろこの不平等の起源が到達不可能なことによって理論的に打倒されるという意味へと変容する。なぜ不平等の起源に到達不可能であることが不平等の打倒につながるのか。まずルソーが設定した自然状態についての分析を通じて見ていこう。

虚構としての自然状態

人間不平等起源論における二部構成はすでにこのルソーの手法を反映している。ルソーは一部をまるまる自然状態、二部を社会状態(自然状態からの移行過程)の分析に費やしており、これは自然/社会という二項対立の構図をそのまま反映している。ここにおいて特異な点は、彼が第一部をまるまる充てた自然状態がルソーが創設した仮説に過ぎないこと、それをルソー自身が断言している点にある。「事実をすべて退けることから始めよう」[2]ルソーは歴史的事実とは切り離されたいわばフィクションとしての自然状態について分析している。

このような手法には容易な批判が考えられる。「虚構としての自然状態に起源を求めても、結局得られるのはルソーにとって都合のいい答えだけだ」とか「社会における不平等という現実の結果に対して虚構を持ち出すのはそもそも分析の方法として間違っている」などの批判だ。しかし、ルソーはこのような批判をすでに想定している。それどころか、これらの批判はむしろルソーを援用することになる。

ルソーの規定した自然状態によって、今この社会に確かな現実として存在している不平等は、その起源が虚構的であって到達不可能になった。この社会からたどることのできない虚構的な自然状態、歴史という手法によって直線的につなぐ事ができない断絶された自然状態は不平等を糾弾する原理的な力として機能する。

断絶が暴く歴史の不正

一般的な分析の手法を用いるならば、現代の社会的な不平等の起源を探るためには歴史を持ち出さなくてはならない。しかし、歴史を遡ることはその特性上、常に現在という結果から、原因としてのその起源をたどるものであり、この手法は常に現在の正当化というリスクを孕んでいる。私たちは歴史という物語を見つめる時、まるで現代が過去から原因づけられた、こうでなくてはならないただ唯一の当然の結果であるように見てしまうのだ。ルソーの断絶された自然状態は、この歴史を経由した分析の手法に対するカウンターとして機能する。

ルソーの自然状態という虚構、そして社会状態との断絶にについて淵田仁は『ルソーと方法』においてアルセチュールを引用しながら次のように指摘している。

 

「[ホッブズやロックら〕 理論家たちが自然状態に訴える際、その訴えは円環 [cercle] として機能します。この円環はまず自然状態の規定に見てとれる。自然状態が社会状態の規定を通じて考えられているからです。自然状態の人間に、社会ではじめて意味をもち、社会状態の人間のものでしかありえない規定、情念・属性・能力(例えば理性・自尊心)が帰されている。理論家たちの円環は、その思考形式が円環をなしているところにあります。 結果であるはずの社会状態が起源に投影され、そのために起源から結果が生じることが容易になっているのです。 ところがそれは、結果を起源として投影し、前提することにほかならない。こうして自然状態は容易に自己原因となり、起源の意匠のもとで自己正当化される。ここにあるのは反復だからです」[3]

ルソーは「彼らは未開の人間について語りながら、都市の人間を描いていたのである」と述べホッブズらを批判したのだが、その理由は「都市の人間」という研究対象の選択的誤謬というだけではなく、「思考形式」の「円環」に存する。円環を形成する形で自然状態は構築されてきた。ゆえに、「彼らのうちの誰ひとりそこに到達した者はいない」のであり、ただそれは「社会状態に実在するものを合理化する」ことでしかない。[4] 

(太字は引用者強調)

 

 ここでは端的に社会状態に生きる人間が自然状態について考えることの限界が示されている。もし、自然状態が社会状態に直接接続されるものであるならば、それはこの社会状態を合理化するものとして機能してしまう。そこでは「不平等」という社会の側が生み出した災厄すらも、自然状態に起源を持つ正当化されたものとして是認されてしまいかねない。

ルソーが虚構として仮設した自然状態とは社会と断絶されたユートピアにすぎない。ここに重要なポイントがある。それはルソーの持ち出した虚構的な自然状態はそれ自体が宙吊りにされているだけではなく、むしろ社会の側を脅かすという点だ。

起源は虚構として断罪された。ただ、紛れもなく今ここに不平等を内包した社会は存在する。起源を失ったこの社会はまさしく命綱を失った宙吊り状態にあるのだ。

逆転する円環、社会の再構築

この起源を失ってしまった宙吊りの社会の位置をルソーは一度断罪したはずの円環に求める。[5]しかし、その円環はアルセチュールが指摘したような先の思想家たちが指摘した起源を求め過去に遡る円環とは逆周りの円環である。ルソーは現代の社会を政治形態の円環的な変化の最中にあるものとして分析している。つまり、今という地点から起源という過去へという方向の回転を、今という政治形態がどのように変化していくかという未来の方向へと逆回転させているのだ。

個々人間の所有権から生じた法はその結実として国家を作り出した。国家は人民の持つ所有の余剰によって維持され発展する。しかし、その国家もやがて腐敗し堕落する。堕落した国家は人民の手によって崩壊することになる。この崩壊こそが革命である。この革命によって人々は国家を自らの手で手放し、社会を一旦自然状態となんら変わらない状態へと帰還させる。人民はこの「まっさらな状態」[6]から再び社会を始めるのだ。

この円環構造には終わりがない。このやり直された社会もまたいずれ腐敗し堕落する。この国家の勃興、隆盛、そして腐敗、堕落し崩壊するという不断の円環こそがルソーが導き出した結論であった。ここでは第一部で論じられていたように自然状態から法と国家を創設することで社会状態へと発展するという直線的に接続された歴史が否定される。

ルソーの円環において社会は選択可能な存在になる。人々は国家の崩壊した社会なき自然状態において常に、ある社会を構築する。過去へと遡る歴史の手法が結果としてこの社会を必然のものにするのに対して、この逆向きの未来への回転は必然に見えるこの社会を人々がたまたま選び取った偶然の産物へと変化させるのだ。

 民主政治は倒せない

 さらに特筆すべきなのはこの国家の腐敗堕落というプロセスが民主政から君主制への移行と重ねられているという点だ。[7]このすべての国家は君主制へと堕落するという一見強引にも見える論理にはルソーの想定する民主政のもつ不可分の2つの不可能性が示されている。

それはまず、民主政治の永続への不可能性である。どんなに優れた民主政治でも必ず君主制へと堕落する。しかし、その一方で、もう一つの不可能性が持ち上がる。それは民主政治を打倒することへの不可能性だ。堕落してしまった君主制は王の首を跳ね、玉座から引きずり下ろすことでいとも容易く打倒される。

しかし、民主政治はどうだろう。民主政治は倒せない。なぜなら民主政治を打倒するために跳ねるべきはその国家の国民全員の首だからだ。この2つの不可能性は逆説的にある可能性を導き出す。それは民主政が何度でも甦るのだという不死の可能性だ。

社会をやり直すということ

社会は、不平等を内包して確かにここに存在している。この社会は今ここにはこの形でしか存在しないという意味で必然である。しかし、ルソーは虚構としての自然状態によって、逆転した円環によって、この必然を打倒した。

予見不可能で起きてしまえばもう取り返しのつかない社会という決定的な災厄が、社会的な不平等を生み出した。この社会を現実として生きる私達にとって、この社会ではない別の社会が存在した可能性について想像を巡らすことは難しい。

しかし、ルソーの手法によって円環の中に放り込まれたこの社会は、何周目かの円環の一つの社会形態として必然から偶然の状態へと引きずりおろされる。この円環は何周か先に存在し得るかもしれない、ここではない全く別の社会への可能性を開くのだ。

ルソーの論じていた時代よりも不平等ははるかに複雑に社会に絡み合い、より強力に社会という構造の中に閉じ込められている。ただ、ここではない全く別の社会を想像することは、この逃れられない不平等への諦念の悪夢から目覚めることだ。複雑に描きこまれたキャンバスをひっくり返して、そこに新たな世界を描き出し始めること「まっさらな状態からやり直す」ことが何度でも可能であることをルソーは示唆している。ルソーは歴史家として不平等の起源を見つめているのではない。むしろ、彼は偉大な夢想家として、その不平等の存在しないまっさらな未来(それはある社会の終わりでもありまた別の社会の始まりでもある)を、夢想しているのだ。

 

参考文献

ジャン=ジャック・ルソー、坂倉裕治訳『人間不平等起源論付「戦争法原理」』講談社学術文庫、2016年

淵田仁『ルソーと方法』法政大学出版局、2019年

ジャン・スタロバンスキー、山路昭訳『透明と障害』みすず書房、2015年

アルセチュール、市田良彦、王寺健太訳『政治と歴史』2015年、平凡社

 

[1] ジャン=ジャック・ルソー、坂倉裕治訳『人間不平等起源論付「戦争法原理」』講談社学術文庫、2016年、40頁

[2] 同書、43頁

[3] アルセチュール、市田良彦、王寺健太訳『政治と歴史』2015年、平凡社、411頁

[4] 淵田仁『ルソーと方法』法政大学出版局、2019年、248-249頁

[5] 『人間不平等起源論付「戦争法原理」』、139頁

[6] 同書、118頁

[7] 同書、132-133頁